社会福祉法人京都市身体障害者福祉センター

法人の歴史

○法人の前史(福祉会館開設前から法人化まで)

法人30年誌 〜輝く未来へ向かって〜 より抜粋

京都市身体障害者福祉会館建設まで

身体障害者福祉法が制定されて11年、1960年(昭和35年)には精神薄弱者福祉法・身体障害者雇用促進法が制定され、翌年の1961年には国の制度に先駆けて「京都市身体障害者相談員制度」が発足したものの、在宅身体障害者のための施策はまだまだ不十分な状況であった。

他面、サリドマイド禍の発生やパラリンピックの東京開催などにより、国民の障害者問題に関する認識もようやく高まりを見せ、障害者や関係者の権利意識や要求も組織化され、様々な障害者団体が結成され運動が展開されるようになってきた。

したがって、1960年代を一口にいえば、「制度の未整備と要求の狭間の時期」であったと言える。
身体障害者福祉施策について言えば、京都市においても多くの要求が高まりを見せる中、体系的な施策整備の必要性を認識し、順次実施に移しつつあった時期であった。

具体的には、京都市身体障害者家庭奉仕員制度の実施(1968)・京都市心身障害者扶養共済事業の実施(1968)・京都ライトハウス改築移転(1968)・京都ろうあセンターの開設(1969)・京都市重症心身障害児早期療育助成金制度の実施(1969)などがある。

この様な時代的背景の中で、とくに、京都市身体障害者団体連合会(以下「市身連」という)・京都市肢体障害者協会(以下「肢体協」という)を中心として、会館建設に関する要求が高まりを見せてきた。

具体的には、「障害者の集まる場が欲しい」「車椅子利用者をはじめ重度の障害者が家から出て行く場所が欲しい」というものであった。当時の回想として、「市身連や肢体協が集まって会議する場所がなく、四条大宮西の更雀寺の本堂を借りて会議をしたものだった。足が不自由な者は畳に座ることができず、寝そべって会議に参加したものだった」ということが語られている。また、長橋栄一氏の話によると、「京都市内の数箇所に障害者の溜まり場があり、そこで自分の身の上を語り合い、また障害者問題について議論を交わしていた」状況があった。

この様な状況を背景として、市身連・肢体協を中心として、京都市に対する会館建設に関する要求活動や市会請願の運動が積極的に展開された。しかしながら、この種の施設は国において制度化されておらず、また、全国的にも先例のない画期的な施設であった。
京都市では京都市社会福祉審議会などの議論を経て、広義のリハビリテーションの概念のうち、在宅身体障害者の社会的リハビリテーションを行うための利用施設として、1969年(昭和44年)から身体障害者福祉会館(仮称)の具体的な構想が検討され始めた。これは、建設が計画されている「京都市身体障害者リハビリテーションセンター」や既設の京都ライトハウス・京都ろうあセンターの機能によってカバーできない機能を持つものとして構想された。

  1. 相談事業:主として地域的・非専門的相談を行う。
  2. 集会・会議の場:これまで身体障害者団体からの要望が強かったもので、関係団体等の集会や会議の利用に供する。
  3. 身体障害者の社会教育的な各種教養講座
  4. 身体障害者の自発的なサークル活動の場
  5. 身体障害者スポーツの場
  6. 一人でも利用できる身体障害者の憩いの場

運営主体については施設の機能から見て、基本的に全身体障害者を対象とする施設であるが、視覚・聴覚・言語障害者については、既存の京都ライトハウスや京都ろうあセンターを利用することが多く、身体障害者福祉会館の利用は肢体障害者が中心になることが予想されたので、視覚・聴覚・言語障害者の利用についても最大限の配慮をすることを要件として、京都市肢体障害者協会にその運営が委託されることになった。
担当課(当時は民生局保護課福祉係)との間で、「更雀寺」の本堂で議論を重ねた。

当時の担当係員であった太田勝巳氏の述懐によると、「更雀寺で徹夜の議論をして、家に帰らず、『桜湯』で朝風呂に入って、そのまま市役所に出勤したものでした。」という状況があった。この言葉に象徴されるように会館の建設は公立民営といえども、京都市と関係団体との合作であり、今日の言葉で言う「パートナーシップ」によって作り上げられたことに大きな特質があった。

11月に京都市営繕課の設計が終り、12月から翌年の3月にかけて津田工務店による工事が行われ、3月末にはエレベーターの一部を除いて完工し、4月2日京都市身体障害者福祉会館条例が4月9日に同施行規則が施行された。

開所式は1970年(昭和45年)4月9日に会館西側のグランドに天幕をはって挙行された。来賓は富井京都市長ほか100名で、障害者250名、合計350名が参加した。
式の途中に、調整中を知らずにエレベーターに乗った障害者がエレベーター内部に閉じ込められるというハプニングがあった。
 また、テープカットは富井京都市長を真ん中にして、車椅子の青年男女各一名によって行われ、これまでスポットの当たることのなかった車椅子の青年男女にとって初めての晴れの舞台となった。

かくして待望の会館が誕生した。元電話中継所のいかつい建物ながら、改装されて新品同様になった。まさに「障害者の城」となった。
蟹江館長の主張であった自由な利用をはかるため、できる限り細かい会館利用規則は作らないようにした。

「堰を切ったように」「水を得た魚のように」障害者の利用が始まった。これまで家に閉じこもって来た重度障害者にとって、貴重な外出目標ができた。卓球にアーチェリー、障害があってもスポーツができることを体が教えてくれた。

これまであきらめていたお茶やお華が習えるようになった。身体が不自由でも自分で車が運転できることを知った。
 見掛けることの少なかった車椅子の障害者の姿に、街の人々は初めは奇異な目を向けていたが、そのうちに車椅子は街の点景となっていった。
今でこそ「福祉の街づくり」や「バリアフリー」は通り言葉になっているが、そのために会館の果たした役割は計り知れないものがあった。

1972年(昭和47年)に京都市において全国でも珍しい「障害者のためのモデル街づくり懇談会」(略称;街こん)が京都市長の諮問機関として誕生し、以来京都市において今日にいう「バリアフリー」が積極的に進められてきた。  この様な先進的取組が評価され、翌1973年に福祉の街づくりのモデル都市として、京都市・仙台市を含む6市が全国で初めて厚生省の「身体障害者福祉モデル都市」の指定を受けることとなった。

同年6月に京都市では、関係局の横断的な庁内プロジェクトとして「福祉行政推進会議」を設置し、福祉行政の総合的推進を図ることとなった。  また、同年11月には船橋京都市長の提唱により、市民運動としての「福祉の風土づくり推進協議会」が発足し、全国的な「福祉の風土づくり」の先導的役割を果たすこととなった。

翌1974年(昭和49年)に京都市において、健康と福祉について総合的な行政計画を作るために、市民と行政による「市民の健康と福祉に関する計画委員会」(略称;健福委員会)を設置し総合的な審議を始めた。

さらに、1975年(昭和50年)に京都市民生局の中で二つの課で分掌されていた身体障害児・精神薄弱児者・身体障害者を一元的に所管する課として「障害福祉課」が誕生した。国連において「障害者の権利宣言」が採択されたのもこの年であった。  また、前記の健福委員会では、各障害者団体等の協力を得て、京都市では初めての「車いす観光ガイドブック」を刊行した。

1978年(昭和53年)京都市身体障害者リハビリテーションセンターが開設されたが、その頃には在宅重度障害者対策を求める要望が強く、具体的に養護学校高等部を卒業したものの、就職の道もなく家に閉じこもり、心身の退化を余儀なくされている障害者の例が少なからずあった。

この様な情勢を受けて、1980年(昭和55年)会館において「重度障害者援護事業(あすなろ)」を開始した。受入れは僅かに10名であったが、そのうちの9名は送迎しなければ通所出来ない重度の障害者であった。  国際障害者年京都市推進会議が発足したのも、この年であった。1981年(昭和56年)には国連による国際障害者年が開始された。4月には岡崎公園一帯において「国際障害者年京都市民の集い」が開催され、「京都宣言」が採択された。  また、12月にはこれまでの京都市児童院が心身障害児への機能を充実し、京都市児童福祉センターとして再発足した。

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運営委員会の設置

京都市から身体障害者福祉会館の運営委託を受けた京都市肢体障害者協会では、次のような運営委員会を設置してこれに当たることとなった。

相談事業の開始

結婚相談事業は前川副館長が担当したが、障害者にとって結婚問題は極めて深刻であった。障害のある男性の場合、生活力があれば障害のない女性を伴侶としている例が少なくないが、障害のある女性の場合障害のない男性との結婚は極めてまれであり、障害のある女性においてより深刻な問題が提起される結果となった。

多くのニード(昭和48年の登録者数166名)にかかわらず、成立件数は10件に満たず(昭和48年の成立件数9件)、障害者の結婚問題の深刻さを浮き彫りにした結果となっている。

講習会の開始

会館事業の具体的な計画については、運営委員会や事務局を中心に検討を重ねられ、類似の施設としての青年の家などを参考に、障害者の特質を加味しつつ、1970年6月から10月末までをサイクルとして次のような講習会が開かれた。

  定 員 講習日 講   師
@茶 道 20名 毎週日曜日 裏千家 山本春代先生
A華 道 20名 毎週水曜日 嵯峨未生流 楠 一石先生
B料 理 20名 毎週金曜日 大和料理専門学校派遣
C陶工芸 15名 第2第4日曜日 藤川斗山先生
D珠 算 30名 毎週日曜日 角谷 明先生

各講習会の講師も、この様な障害者を対象とした講座は初めての経験であったが、試行錯誤と創意工夫の上、指導に当たった。
とくに、茶道の講師の山本春代氏は中京区身体障害者団体連合会の会長である山本與八氏の妻女であり、下肢障害者のために椅子席による点前(立礼)を積極的に活用するなど、障害に対する配慮の行き届いたものであった。

受講生も、これまで障害のため一般の教室に通うことができなかっただけに、会館におけるこれらの講座は大きな評価を得たものであった。
なお、後日書道教室・柔道教室・和裁教室がこれに加わった。

サークル(昭和46年度現在)

会館の事業としてサークル事業を始めるや、障害者のニードが噴出するようにいろいろなサークルが誕生した。  卓球・洋弓・ボウリング・車椅子バスケット・撞球などのスポーツ系のクラブ活動は、そのまま京都市の身体障害者スポーツ振興の導入的役割を果たした。

無線・文芸・美術・ギター・将棋・リボンフラワー・人形劇などのクラブは家の中に閉じこもってきた障害者を戸外へ解放し、仲間の連帯を築く上で大きな役割を果たした。

とくに人形劇「ポー」の活躍はめざましく、保育所・児童館をはじめいろいろなところで公演を重ねるようになった。

自動車部の誕生は、これまで障害者にとって自動車運転は無縁なものとしていた認識を改めさせ、結果として、障害者の自動車取得が増加し、社会参加のために大いに貢献した。

クラブとしてユニークなのは、話し合いクラブ、障害者問題をはじめ会館の運営問題に至るまで、自由に議論をするなかで、障害者自身の意識の高まりを促進する結果となった。

クラブの構成

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「身体障害者福祉の手引き」の発行

相談事業を実施しているうちに、障害者が社会的資源としての諸制度について予想外に知識に乏しく、制度の活用が不十分であることが痛感された。

会館事務局において、水谷指導員を中心にして、身体障害者福祉の諸制度についての手引書の発行を計画し、1971年(昭和46年)に「身体障害者福祉の手引き」を発刊した。

障害者と自家用車・「愛輪会」

障害者と自家用車は無縁のものであった。それが、一定の条件の下で障害者にも運転免許が交付されるようになって、急速に関心が高まってきた。
身体障害者福祉会館を場とする自動車部「愛輪会」の活動によって自家用車を運転する障害者が拡大するにつれ、様々な要求が出てきた。とくに、駐車禁止に関する例外的取扱や自動車重量税の撤廃の要求などがある。

会館を場として、これらの要求実現への活動が積極的に展開された。
障害者が自家用車を運転することは、単に当該障害者の生活を豊かにしたことだけでなく、とくに障害者運動の活性化に大きく貢献してきた。
また一方、「愛輪会」の主催した交通安全教室は、当事者たる障害者のためだけでなく、障害者の運転する車の安全性について社会的認識を確立するためにも大きく貢献した。

重度身体障害者援護事業「あすなろ」の開始

身体障害者福祉会館が開設して10年を経た1980年(昭和55年)にこれまでの懸案の重度身体障害者援護事業を開始した。10名の定員で、週5日通所で創作活動・機能訓練を中心にプログラムを実施した。
10名の障害の程度は重く、10名中9名までをハンディキャブで送迎した。(職員男1名・女1名)

翌1981年(昭和56年)から、通所生の要望もあり、クリスマスカードの仕立て作業(下請け)を開始し、1988年(昭和63年)初めて重度重複障害者を受入れ、自主的な小グループ活動をプログラム化した。

この「あすなろ」の事業は、単なる授産という収益事業にとどまらず、より重要な副次的意味を持っていた。その一つは、極めて僅かな額であったが、重度の障害者にとって、生まれて初めて自分のカでお金を稼ぎ、自分の意思でお金を使う場ができた事である。これは、すごい事だった。そしてこの事は、これまでの依存から自立への第一歩でもあった。

その二つは、その延長として、重度障害者の自立心の醸成である。事業を担当した指導員もこれを事業の大切な柱として、事業のプログラムも可能な限り、利用者の意思を尊重して運営に当たった。
その中で、利用者の2名が、地域で一人暮らしを始めるようになり、これは「あすなろ」事業の大きな成果でもあったと言える。

この「重度身体障害者援護事業あすなろ」は、身体障害者福祉会館の社会福祉法人化及び洛南障害者授産所の発足とともに、「デイサービス事業あすなろ」と改称することになった。

身体障害者福祉会館と障害者スポーツ

会館の西側に、20m×40mのグランドを併設した。これは、楽にバスケットボールコートとして使用できる広さであった。また、本館二階の機能訓練室(約80坪)が体育館の役割を果たしていた。

この二つの設備を利用して、障害者スポーツが積極的に展開された。卓球・車椅子バスケット・アーチェリーを始め、柔道までやり出したのには驚かされた。

卓球は機能訓練室に卓球台をおいて練習を始め、全国身体障害者スポーツ大会においても優れた成績を残したものであった。

車椅子バスケットは、主として機能訓練室の壁面にゴールを取り付け、基礎練習に励んでいたが、京都市身体障害者リハビリテーションセンターの体育館が利用できるようになり、そちらに移って行った。

最も盛んであったのはアーチェリーであった。当初の予算で正規のマトを整備できなかったこともあり、やむなくグランドの片隅に古畳を立て掛けて、マトの代用をしていた。障害者スポーツとして人気の高かったアーチェリーはほとんどの人にとって初めての経験であり、この福祉会館が京都における障害者アーチェリー発祥の地ということができる。
このアーチェリーも京都市身体障害者スポーツセンターの開設により、その場をスポーツセンターに移していった。

そのほかボウリングクラブが生まれたが、会館にその施設を設けることができなかったため、民間ボーリング場を借りて練習や大会を行った。
このボウリングは、手作りの投球台を考案・製作したことから、誰でも楽しめるスポーツとして、車椅子をはじめ、重度の障害者に大きな自信と喜びを与え、その輪が広がっていった。

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法人の発展
(身体障害者施設から知的障害者施設、障害者生活支援センターまで)

法人化と洛南障害者授産施設開設

障害者の福祉施策の拡大と併せて、教育の面でも、養護学校等の整備が進められ、ほとんどの障害者が養護学校高等部まで進学でぎるようになったが、高等部卒業後の進路が大きな問題となってきた。  多面、障害児の重度化の傾向は著しく、養護学校高等部を卒業しても、民間の企業に就職できるものは極めてまれであり、その殆どは卒業の翌日から行くところがなく、家の中に篭らざるを得次い状況があった。

京都市内には、知的障害者のための通所授産施設はすでに不十分ながらも整備されていたが、肢体障害者のための通所施設は皆無であり、とくに若い肢体障害者やその親また関係者の強い願いがあった。  したがって、肢体障害者のための通所授産施設の建設は重要な緊急課題であった。

この様な経過から、北区の「京都市紫野障害者授産施設」(昭56年12月開設)に引き続いて、京都市身体障害者福祉会館の敷地内に建設されることにたった。

計画の段階において、用地は身体障害者福祉会館の西側のグランドを活用することが検討されたが、グラソドが無くなることについて多くの異論があり、福祉会館の三階に設置する案も検討されたが、建築強度などに問題があり、折から京都市において別途身体障害者スポーツセンターの建設計画も出てきた関係もあり、障害者スポーツの部分はスポーツセンターで分担することとし、グランドを活用して通所授産施設を建設することになった。

また、身体障害者通所授産施設を運営するためには、これまでの任意団体である京都市肢体障害者協会でなく、杜会福祉法人であることが不可欠の要件であったため、1981年(昭和56年)12月に法人化に向げて’「設立準備委員会」を設置し、理事長に豊田慶治華頂短期大学教授を選任し、法人認可と共に1984年(昭和59年)4月1日「杜会福祉法人京都身体障害者福祉セソター」(以下「当法人」という)が発足した。

これと並行して、1984年(昭和59年)1月授産施設の工事が開始され、同年9月14日に竣工・開所式が行われた。
授産科目には当時としては画期的なワープロ印刷を導入し、ワープロ部門で10名、紙加工部門で8名の重度障害者が通所することとなった。

1985年(昭和60年)に会館事業の「重度身体障害者援護事業(あすなろ)」が「デイサービス事業(あすなろ)」と改称された。

翌1986年(昭和61年)に壬生身体障害者福祉会館及び壬生障害者授産所が開設されたのを期に、「京都市身体障害者福祉会館」の名称が「京都市洛南身体障害者福祉会館」に改められた。

1988年(昭和63年)4月に高野玉岡町に京都市障害者スポーツセンターが開設され、本格的た障害者スポーツの場が誕生した。  同年10月、全国身体障害者スポーツ大会(京都大会)が西京極スポーツセンターを主会場とし、高野の障害者スポーツセンターなどで盛大に開催された。

1989年(平成元年)、洛南障害者授産所が創立5周年を迎え、洛南身体障害者福祉会館において記念コソサートを開催した。

1990年(平成2年)、洛南身体障害者福祉会館では浴室の建物・設備を改造し本格的な入浴サービス事業を開始した。

この事業は、送迎から入浴に至るまで多くのボランティアに支えられ今日に至っている。また、アメリカで「障害を持つアメリカ人法」(ADA法)が公布されたのはこの年であった。

授産種目の選定

これまで、一般的に障害者の授産施設の仕事は、紙加工や電気部品の組み立てなどの企業の下請け仕事・木工や陶芸などが多いが、いづれも収益性は低く、かつ動作能力の低い重度障害者になじみにくいものがあった。

前述の二つの相反する課題の充足に少しでも近付くために、いろいろと検討を加えた結果、当時において先端技術であり、比較的付加価値の高いワードプロセッサー(以下ワープロという)作業を導入することとなった。

受注から、製本までの一環作業ができればかなりの収益性が見込まれるが、印刷・製本を行うにはかなりの設備投資と身体的作業が必要とされることから、当授産施設では版下までの作業とし、印刷・製本は城陽町の「梅花園」に外注することとなった。

ワープロは、習熟することによって、これまで作業能力が乏しいとされてきた重度の四肢機能障害者についても対応が可能であったことから、まさに画期的なことであった。ただし、四肢機能に障害があっても、ワープロを操作するだけの知的能力や適性が必要であった。
したがって、これらの適性を持たない重度障害者のために、下請け紙加工の作業も併せて行うことにした。

受注及び収入の状況

1.受注の状況
京都市民生局事業概要をはじめとする官公署・福祉関係団体の印刷物及び年賀状印刷を主に取り扱った他、紙加工部門では民間企業3社の下請けを行った。
2.収入の状況
開設の翌月である1984年(昭和59年)10月を例にとれば、利用者に支払った工賃は、ワープロ部門多い人で5,000円、少ない人で2,000円平均して3,000円強となっている。紙加工部門3、800円〜900円

開所後の状況(京都新聞から)

1988年製版機2台・版下作成機・製本機など製本作業に必要な一式の機器を購入し、一貫した製本作業を始めた。スタート当初は、行政機関の仕事が多かったが、納期をきっちり守り、丁寧な仕事ぶりがうけて、今では会社の決算書など民間の注文も増えてきた。  製本作業を始めるまでは仕事探しに追われることがしばしばあったが、今は残業しても、さばききれないほど注文がある。(1989・9・6京都新聞)

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「重度障害者入浴サービス事業」

当時、肢体障害者の入浴にっいては非常に困難な状況があった。とくに下肢障害者につては、自宅において入浴可能な設備を持っている人はマレであったし、公衆浴場における入浴は不可能であり、公的施設で利用できるものは皆無であった。このような背景と、自分自身が入浴の困難な下肢障害であったことから、蟹江館長の入浴サービス事業にかける思いは強かった。

開館当時は、スポーツの付帯設備として、シャワー設備があったが、1973年(昭和48年)に会館の西側のグランドに張り出すような形で浴室を新設した。

設備は、泡沫浴槽一基雨潅式シャワー二基が整備された。浴槽は一応手摺等、下肢障害者への配慮がされたものであったが、小さなものであった。  当初は、一般障害者に解放することを計画したが、不特定多数に入浴設備を開放する事は、公衆浴場の権益を損ねるという申し入れがあり、一般開放を断念し、会館事業として特定者に限定して実施することとなった。

将来は、本格的な入浴サービス事業を目指しつつ、入浴サービスに関する知識・技術の習得と併せて、対象者へのPRや対象者の選定作業を行いつつ、さしあたり、堀川病院の「半歩でもの会」の入浴サービスのために場所の提供を行った。

当時堀川病院では、早川一光医師の主導によリ、全国でも先導的な試みとして、脳卒中などによる肢体不自由者の在宅リハビリテーションの自主的なグループとして、「半歩でもの会」を組織して堀川病院の入浴設備を利用して、入浴サービス事業を実施していたが、病院の所在が京都市内の北部にあったことと、病院の入浴設備の利用が限界にきていたこともあり、身体障害者福祉会館の入浴設備の利用はまさに「渡りに船」であった。また、 身体障害者福祉会館側からすると、これまで全く蓄積のなかった入浴サービスのノウハウや送迎について学ぶ絶好の機会であった。

1990年(平成2年)、これまでの入浴設備が本格的な入浴サービスを行うのに、極めて不十分であったことから、旧来の浴室と同じ場所に規模を拡大して浴室を新設した。設備としては、障害者向浴槽一基と特殊浴槽一基を導入し、実質的に身体障害者福祉会館の事業として重度障害者入浴サービス事業を10月から開始したが、これは当時としてはまさに画期的な事業であった。
この重度障害者入浴サービス事業は、発足の当初から多くのボランティアに支えられてきた。

伏見総合福祉センター及び山科合同福祉センターの運営受託

洛南身体障害者福祉会館と洛南障害者授産所の開設は、京都市における障害者福祉とりわけ重度障害者の杜会参加のために大きた役割を果たしてきたが、その立地条件から見ても全市域をカバーするには無理があった。

とくに、伏見区及ぴ山科区からは交通の便も悪く、両区では早くから、障害者福祉関連施設の建設の要望が強かった。京都市においてはこれらの要望に応えて建設した伏見区及び山科区の総合的福祉施設の運営を当法人に委託することになった。

1992年(平成4年)5月、「京都市伏見杜会福祉総合センター」が開設され、身体障害者通所授産施設「京都市伏見障害者授産所」・在宅障害者デイサービスセンター「京都市伏見障害者デイサービスセンター」・知的障害者通所授産施設「京都ふしみ学園」の運営が当法人に委託された。

同年10月、京都市は「国際障害者年第2次京都市行動計画一ノーマライゼーションを進めるための総合的福祉施策のあり方」を発表した。

1993年(平成5年)3月、京都市は「新京都市基本計画」を策定。同年4月、「京都市山科合同福祉センター」が開設され、身体障害者福祉センター「京都市山科身体障害者福祉会館」・身体障害者通所授産施設「京都市山科障害者産所」・知的障害者通所授産施設「京都市やましな学園」・在宅知的障害者デイサービスセンター「山科知的障害者デイサービスセンター」の運営が、当法人に委託さた。

同年12月、「心身障害者基本法」が改正され、「障害者基本法」となった。

1996年(平成8年)11月、山科身体障害者福祉会館・山科障害者授産所・やましな学園・山科知的障害者デイサービスセンターが合同で、第一回「山科合同福祉フェスタ・やったね!秋まつり」を開催した。

同年12月、京都市では総合的行政計画「もっと元気にアクションプラン」を発表した。

1998年(平成10年)4月、京都市は「京都市障害者いきいきプラン」を発表した。同年4月、「精神薄弱者福祉法」が改正され「知的障害者福祉法」となり、「精神薄弱者」の呼称が「知的障害者」に改められた。

2000年(平成12年)、「京都市洛南身体障害者福祉会館(旧 京都市身体障害者福祉会館)」が創設30周年を迎えた。

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伏見総合福祉センターの運営受託

京都市では、1988年(昭和63年)1月、民生局用地として京都市土地開発公社が先行取得していた伏見区紙屋町の伏見郵便局跡地約2500平方メートルに伏見福祉事務所・伏見老人福祉センター・伏見老人デイサービスセンターをはじめ、知的障害者通所授産施設・身体障害者通所授産施設・身体障害者デイサービスセンター建設を計画し、1992年2月に着工・4月23日に竣工・開所式を挙行した。

なお、従来から要望の強かった身体障害者福祉センターについては、敷地面積の制約や地下鉄南進により洛南身体障害者福祉会館へのアクセスが幾分改善されたことにより見送られることになった。

最終的に福祉事務所は総合福祉センターに入らず、建設された施設のうち老人関係の二つを除いて、伏見障害者授産所・伏見障害者デイサービスセンター及びふしみ学園が当法人に運営委託されることになった。

山科合同福祉センターの運営受託

洛南身体障害者福祉会館と洛南障害者授産所の開設は、京都市における障害者福祉とりわけ重度障害者の社会参加のために大きな役割を果たしてきたが、その立地条件から見ても全市域をカバーするには無理があった。  とくに、山科区からは交通の便も悪く、早くから、山科区身体障害者団体連合会をはじめ関係団体による陳情や要望活動が展開され、重要な福祉行政課題となっていた。

京都市では、これらの要望を実現するため、山科区竹鼻四丁野町34−1の元山科警察署跡地を取得し、山科図書館と併せて合同福祉センターの建設を計画し、1991年(平成3年)11月1日に着工し、1993年(平成5年)3月31日に完成し、山科図書館を除く、山科身体障害者福祉会館・山科障害者授産所・やましな学園・山科知的障害者デイサービスセンターの4施設が当法人に運営委託されることになり、同年4月21日に開所式を挙行した。

「山科に福祉センターを」という要求活動を始めて15年目にしてやっと要求が実現できた。」と、山科区身体障害者団体連合会会長高山弘氏は語っている。

グループホーム「つかもり荘」・「たけはな荘」の運営委託

1998年(平成10年)には「つかもり荘」を開設して知的障害者グループホームを立ち上げました。現在では「たけはな荘」「ふしみ寮」あわせて3箇所の運営をしています。

障害者支援センター「らくなん」の運営受託

2000年(平成12年)には障害のある方やその家族の地域において生活を支援し、自立と社会参加の促進を図るため、京都市の委託事業である京都市中部障害者地域生活支援センター「らくなん」を開設しました。
現在は山科の京都市東部障害者地域生活支援センター「らくとう」の2箇所を運営しています。

さらに

だいご分園の開所

2003年(平成15年)には、やましな学園だいご分園が開設され運営を開始しました。京都市の施設建設はここまでで措置費の時代は終わり、支援費制度、障害者自立支援法に移行することになります。

居宅介護事業の開始

2006年(平成18年)には京都市の公の施設の運営管理を公募する指定管理者制度がスタートしました。福祉施設も例外ではなく指定管理の申請をして指定を受けて、施設管理者の責任で運営いくことになりました。
このように利用者や事業者に逆風が吹く社会情勢ですが、法人としては障害者の福祉の増進と支援をするため2003年には生活サポートセンター「ほっと」2005年には「らいと」を開設して居宅介護事業として在宅の障害者の方への福祉サービス事業を積極的に開始しました。

いたはし分園の開所

2006年(平成18年)には京都市の補助金を得て法人独自の施設ふしみ学園いたはし分園を完成させ、パン工房「クーペ」として知的障害者の通所施設として運営しています。

同和園との協力

同じく伏見区醍醐にある老人介護施設「同和園」の理解と協力を頂き、やましな学園だいご分園の就労支援施設として同和園内に「りっぷる」を開設して入所者の日用品の販売、喫茶コーナーの運営を行っています。

新体系移行、新たな出発

2008年(平成20年)1月には、いたはし学園、だいご学園が新体系の就労移行支援事業所として新たな出発をしました。このように洛南からスタートした障害者福祉事業は、11施設、2事業所、2支援センター、3ケアホームの運営をするまでになっています。

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